光合成研究事始(その五)

生化若手の会とオーバードクター問題

前回の連載は、ようやく博士論文を提出できそうというところまでたどり着いたところで終わりました。3月に学位が取得できそうという見込みが立つと、当然、4月以降の身分が心配になります。当時は、学位は取ったけど就職先がないといういわゆるオーバードクター問題が顕在化してきたころで、生物関係の大学院生などの自主的な集まりである「生化若手の会」(正式名称は生化学若い研究者の会)でも盛んに議論されていました。生化若手の会は、生化学会の後援で設立された若手の会です。今でこそ各学会に若手の会があり、光合成学会でも若手の会が精力的に活動していますが、生化若手の会は1958年に活動を始めたということですから長い歴史を誇ります。以前は、生化学会の理事に若手の会の枠があり、若者の独立不羈の思いに基づく時に批判的な意見を親学会に具申する場でもありました。ここで少し当時の生化若手の会の活動についてご紹介しましょう。

光化学系ⅠにおけるP700生化若手の会は、毎年、夏の学校と称して全国から志賀高原などに集まって4泊5日の合宿をするのがメインイベントで、その他に地域支部の活動があります。関東支部では「生化若手ニュース」を発行していたほか、1泊2日の春の学校や、秋のハイキング、更に冬には蔵王にスキーに行ったりしていました。ちょうど僕が修士課程の学生だった頃に、この連載でも何度か登場した高橋裕一郎さんが関東支部長を務めていました。ちなみに、その前任の関東支部長は、後に東大の新領域創成科学研究科で同僚となる上田卓也さんでした。右に示す1983年の夏の学校の予稿集は、巻末に23ページにわたって一部はカラーの広告が掲載されていて、当時の若手の会関東支部の努力がうかがわれます。1987年の夏の学校では、同じ加藤研の菓子野康浩さん(現在は兵庫県立大)とエネルギー変換をテーマに分科会のオーガナイザーを務めて、話を聞きたい先生に講師をお願いする経験に、わくわくしたものです。講師には、当時東京工業大学の助手をされていて後に金沢大学の教授になられた福森義宏さんにミトコンドリアと細菌の呼吸鎖の話をお願いし、当時阪大の助手をされていて後に室蘭工業大学の教授になられた橋本忠雄さんにミトコンドリアのATP合成酵素の活性調節の話をお願いしました。光合成の話ならいつでも聞けるので、この際にミトコンドリアの勉強をしたいと考えたと記憶しています。

光化学系ⅠにおけるP700夏の学校では、会の途中や終わった後に、参加者が連れ立って近くに遊びに行くこともよくありました。右の写真は、他の研究室の参加者も含めて7名で行った時のものです。薄い青のシャツを着ているのが筆者、左横が出井史子さん、右横が難波勝さん、その右が志波孝光さんです。もう記憶にありませんが、写真からすると地獄谷野猿公苑でしょうね。他に特に記憶に残っているのは、宿泊場所の近くの川に蛍を見に行ったことです。おそらく、現在、石の湯のゲンジボタル公園として整備されているところだと思うのですが、川岸に車を止めて幻想的な光景を眺めました。ある参加者が、蛍ではなく、別の参加者の顔を眺めてぼそっと「きれいだなあ」とつぶやくという場面もありました。もう一つ忘れられないのが1985年のやはり志賀高原での夏の学校です。8月12日に最終日を終えて高橋裕一郎さんの車に同乗して東京へ帰る途中、群馬県内を走っているとラジオで「日航ジャンボ機が群馬の山中に墜落した」という速報を流していました。皆で窓から外を見まわしたのですが、当然何も見えませんでした。

さて、オーバードクター問題に話を戻すと、当時、生化若手の会にはオーバードクター小委員会が設置されていて、この問題が議論されていました。問題別集会の要旨では「オーバードクターというのは、大学院博士課程の年限を終了しても定職が得られず、なお研究を続けている日とのことを言います。」という紹介がわざわざありますので、言葉自体は、ちょうどこのころ広がったものなのでしょう。ちなみに、その他の小委員会としては、「婦人研究者問題」(「婦人」という言葉が時代を感じさせます)、「研究費問題」、「非ドクター系大学問題」がありました。ただ、これらの問題にかかわる議論や、多くの参加者が発言していた研究(室)環境(ボスの指導方針も含む)に対する不満は、加藤研でハッピーに研究をしていた僕には全く響きませんでした。好きで研究をしているのに、なぜ細々としたことに文句を言っているのだろうとさえ思っていました。今から思えば、加藤研の恵まれた研究環境にあぐらをかいた考え方ですが、まあ、若気の至りですね。

浪々の身

しかし、いざ、自分の就職がかかってくると、のんきなことは言っていられません。D3の秋に、中国地方のさる国立大学の助手の公募があったのですが、修士課程の仕事が1本論文になっていただけで、博士課程の仕事はまだ投稿にも至っていなかったので、あえなく不採用になりました。1985年には日本学術振興会特別研究員制度が発足していたのですが、当時は、採用期間は2年で(それ以前の制度では単年度でしたからそれでもましです)採用数も非常に限られていました。そして結果としてわが身がオーバードクターになったのでした。

現在では、研究費での研究者雇用が可能になっていますし、それが難しい場合でも、多くの大学で、無給ではあっても研究が可能なポジションが設けられていますが、当時は、研究室に正式に所属して実験を継続しようとする場合には、大学院研究生になる必要がありました。これは無給どころか授業料を払う必要があり、それでいながら学割が効かないという悲しい身分でした。これなら学位取得を遅らせてD4になった方がよかったかな、と後悔したのですが、後に就職すると、給与などが学位取得後の年数で決まる場合も多く、結果としては、選択を誤ったというほどではなさそうです。

いずれにしても、実家住まいだったこともあり、あまり悲壮感はありませんでした。この理由として当時の「常識」があります。世代が少し上の先輩方を見ると、奥様が高等学校などの教員という方が非常に多いのですが、これは、研究者を目指すと大学院の時代も含めて稼げない期間が長く、その場合、奥さんに養ってもらうことがままあったからだという話でした。当時は男女の賃金格差が一般的にはまだ大きかった時代ですが、教員の給与は平等だったので、女性でも配偶者を養うだけの給与が出ていたという説明です。まあ、実際にそれが理由で結婚相手を決めた例があるかどうかは知りませんが、研究者には稼げない期間があり得る、という不健全な常識があったことは確かです。上に書いた「奥様が」という話からも分かるように、研究者の男女比についても極めて大きな不均衡があった時代の話です。

P700の酸化還元による吸収変化この時期の研究のうち、論文にならなかった研究を一つ紹介しておきましょう。1988年の初頭に、Richard Malkinのグループがホウレンソウから光化学系ⅠのPsaCサブユニットを電子受容体FA/Bを結合した状態で単離できることを報告しました。既に、加藤研では、好熱性シアノバクテリアからPsaA/Bサブユニットのみを含む複合体を単離していて、反応中心クロロフィルP700から電子受容体FXまでの電子伝達活性があることを確認していましたから、これを使えば、構成サブユニット3つだけで全体の電子伝達活性を持つ光化学系Ⅰ反応中心複合体を再構成できるはずだと考えました。そこで、好熱性シアノバクテリアからFA/Bを結合したPsaCサブユニットを単離しようとしたのですが、なかなかうまくいきません。そうこうするうちに、John Golbeckのグループが、Richard MalkinからPsaCサブユニットとその単離方法のコツを提供してもらって、シアノバクテリアのPsaA/BとホウレンソウのPsaCというヘテロな系で再構成実験を成功させてしまいました。この論文は同じ年の11月に発表されて、加藤研での実験は無駄骨に終わったのでした。右に示したGolbeckらのデータ(Golbeck et al. (1988) FEBS Lett. 240: 9-14のデータを改変)は、光化学系Ⅰ反応中心のP700の酸化による吸収減少とその後の再還元のキネティクスを見たもので、PsaA/Bだけの場合には、FXからの電荷再結合によるmsオーダーの吸収変化が見られるのに対して、PsaCを再構成すると吸収変化速度はグッと遅くなっていて、電子がFA/Bまで渡ることにより電荷再結合速度が数十msのオーダーに遅くなっていることがわかります。図中のΔI/Iの意味については、前回の分光学のお勉強の部分を参照してください。

当時加藤研では、安定なサブユニット単離には好熱性シアノバクテリアが一番だと信じていたのですが、サブユニット間の相互作用も強いためにサブユニット単離がかえって難しい、という側面もあったのかもしれません。しかも、後から聞いたところ、Golbeckは、当時Golbeck研に短期滞在していた帝京大学の池上勇さんから我々が再構成実験を狙っていると聞いて、急遽自分たちでも実験を始めたのだったそうです。同じ生物種での再構成にこだわらず、すでに成功している手法を他研究室からさくっと取り入れて実験を進めるセンスと素早さに舌を巻いたものです。(づづく)

初出:光合成ユビキティ ニュースレター2025年12月