植物ゲノム科学辞典

駒嶺穆総編集、朝倉書店、2009年、406頁、12,000円

ゲノム科学の主眼がゲノムの配列決定におかれていた数年前までであったら、分野を細分化して植物ゲノム科学という言葉を作ることには意味がなかったろう。DNA配列は動物であろうと植物であろうとDNA配列であり、そこで使われる手法は、大なり小なり生物種を越えて適用が可能である。しかしながら主要なモデル生物でゲノムの配列決定が一段落し、ゲノム上の遺伝子機能や発現調節といったポストゲノム(この辞典によれば、=機能ゲノミクス)の時代を迎えた今、生物学が手に入れたDNA配列という共通言語の神通力は失われ、研究現場には再びバベルの塔の状況が出現しているように思える。遺伝子の機能の解明には、表現型の解析が必要であるが、動物植物を越えて共通に議論できる表現型というものは残念ながら多くない。そのような時代にあって、植物ゲノム科学に関する用語をきちんとまとめようという方向性は十分に理解できるし、極めて重要だろう。

植物に限らず、生物を研究する上でどのような分野であれゲノム情報の利用は不可欠になっている。いわゆる遺伝子工学的な手法自体については、数多く出版されているプロトコール集などによって知識を得ることは難しくないが、ゲノム科学という漠然とした分野をきちんと解説した書籍は少ない。植物ゲノムに関する情報そのものやその入手方法がどこかにまとまって紹介されていれば便利なのに、と思う研究者は多いだろう。おそらく、本書の企画のきっかけはそのようなものであったのではないかと想像するが、本書自体はあくまで「辞典」であり、言葉の意味の解説という基本から離れることはない。「一家に一枚ゲノムマップ」という時代に当たって、イネとシロイヌナズナのゲノムマップぐらい載っていてもおかしくないだろうし、様々な植物のゲノムサイズの一覧などの参考資料が巻末にあると便利に思われるが、本書では言葉の解説という辞典の基本に徹している。収録された言葉を見ると、遺伝子操作、遺伝学、インフォマティクス関連の言葉が充実していて、その記述も極めてしっかりしている。生物系の辞書では手薄になりがちな、データベース、配列アラインメントを計算するアルゴリズム、マイクロアレイなどの手法に関する項目もきちんと書き込まれていて好感が持てる。また、ゲノム科学には直接関連しない言葉でも、二次代謝と代謝工学、ストレス応答の分野に関する項目は非常に豊富で、記述も極めて詳しい。二次代謝の研究者などにはお買い得の一冊だろう。一方で、ゲノムはゲノムでもオルガネラゲノムに関する記述は手薄で、色素体ゲノム、RNAエディティング、細胞共生説などは項目に取り上げられていない。序文によれば、新しい用語については今後の改訂で補っていくという方針とのことなので、その際に項目の偏りや相互参照の不備についても修正を期待したい。植物ゲノム学という研究分野の進展と共に育っていく辞典であって欲しいと思う。

化学と生物8月号 Vol. 47, No. 8, p. 544 (2009)