知のツールとしての科学(上・下)

ジョン・A・ムーア、学会出版センター、2003年、計605頁、上巻3,300円、下巻3,500円

本書の内容は基本的には科学史である。もともとは、アメリカ動物学会誌に掲載された8編のエッセーを元にしているとのことで、ギリシャ人の自然観から始まって、20世紀の初頭までの西欧科学史を、クーンの提唱したパラダイム変換の立場に立って振り返り、科学的な疑問の解明に重要なのは、適切な問題の設定であることを強調している。ギリシャ人の自然観とユダヤ・キリスト教的な世界観を対比させた第1部、進化を扱った第2部、遺伝を扱った第3部では、その時代時代におけるものの考え方と実験技術の限界の中で、いかに科学者が自然界の疑問を一つ一つ解明しようとしてきたかを詳細に追うことによって、科学の進歩というものの意味が浮き彫りになってくる。本書の元になったエッセイは全米の生物学担当教師に配布されたとのことであるが、生物という学問を教えるにあたって、本書のようなバックグラウンドを理解しておくことは極めて重要であろう。第4部の発生を扱った部分はおそらく著者の専門に近いせいか、記述が教科書的でやや平板である。著者の興味は、主に生物の形態にあるようで、目に見えないものについての記述はやや冷淡である。 進化についても、主に形態の変化という視点から考察され、適応度などについては深く議論されない。また、第1部の冒頭では生物学の基本的な疑問の筆頭として「生命力の本質は何か?」という問があげられているが、本書では生命のエネルギーには全く触れられない。さらに、生化学、分子生物学に関しても踏み込んだ記述は一切ない。このこともあって、科学史が歴史として完結してしまい、過去の科学研究の成果が現在進行している研究にどうつながっているのかがわかりづらいのが、科学教育現場に対する啓蒙を目的として書かれた書物としてはやや残念である。もっともこれは、著者が科学の歴史を、知識の集積量の変化ではなく、それまで得られた知識を前提として繰り返し設定しなおされる問題の変化として捉えていることを反映しているのかも知れない。とすれば、ある1つの分野を特定の時代について考察すれば生物学全体を考察することになるだろうから、本書のような書き方も十分理解できよう。

生物科学ニュース 2003年9月号(No. 381) p. 13