サンバガエルの謎
アーサー・ケストラー著、岩波現代文庫、2002年、231頁、1,100円
本書は、原著が1971年、日本にはサイマル出版から1976年に紹介されたものが、岩波現代文庫として新しく出版されたものである。扱っているのは、ネオ・ダーウィニズムに対して獲得形質の遺伝を主張したオーストリアの生物学者パウル・カンメラーをめぐるドキュメンタリーである。科学の観点から見た場合、初版からの30年以上の時の経過は非常に大きいが、人間のドラマとして見た場合にはその魅力はまだ失われていない。両生類の飼育の天才で獲得形質を主張するカンメラー、宿敵のベーツソン、カンメラーの上司で誠実なプシブラムなどが織りなす人間模様は、科学は進歩しても、人間は進歩しないことを示しているように思われる。著者はジャーナリストで、政治的なイデオロギーを扱った作品から出発して、科学思想にも目を向けるようになった人らしい。科学史の事実はきわめてきちんと調べているようであるが、科学者のものの考え方に関してはあまり理解がないようである。例えば、カンメラーは権威主義の犠牲者であって彼の実験結果が無視されたのは、科学者が学会の大勢に刃向かうことをおそれたからだと解釈しているが、 学界の定説をひっくり返して新しいパラダイムを切り開こうと夢見たことがない科学者が一体どれだけいるだろうか。また、科学者にとっては「実験で何を示したか」が重要であるが、著者は「何を言ったか、どう考えたか」に常に注目する。最後のエピローグで著者ははっきりと獲得形質の遺伝を擁護する立場に立って議論を展開しているが、少なくとも現代の目からすると論理性に欠ける。これはおそらく、「努力が報われる」と感じられる獲得形質の遺伝という思想が、論理を超えて著者を引きつけたのではないだろうか。