植物生理学 第2回講義
オルガネラのゲノムと葉緑体の起源
今回の講義に寄せられた意見の中からいくつかを選び、必要に応じてそれに対するコメントを以下に示します。
Q:今回の講義で一番印象に残ったことは、マラリア原虫は共生藻類の名残で葉緑体を持っていて、一部の除草剤によって死滅するということです。そこで、マラリア原虫は光合成をしないのになぜ葉緑体を持っているかについて考察したいと思います。私はその理由として、マラリア原虫の宿主となりうる生物、または媒介してくれる生物が絶滅してしまった場合に、光合成によって生きることができるように、今は一時的に葉緑体の働きを封印していると考えています。葉緑体の消失がおこったと思われる種(従属栄養の過鞭毛類)もいるので、一概に葉緑体がマラリア原虫にとって必要なもとは言えませんが、除草剤によって死滅するという弱点を持ちながら今も葉緑体を持ちつづけていることから、マラリア原虫にとって何らかのメリットがあると思えてしかたありません。
A:これは非常に自然な考え方でしょうね。ただ、実は葉緑体の機能は光合成だけではないのです。葉緑体では脂質の合成など、光合成以外にも重要な働きをしています。これについては、今後の講義の中で少し触れたいと思っています。
Q:講義で、植物では種によって葉緑体の遺伝子に違いがあると言う話を聞いて、植物が存在する環境と葉緑体の遺伝子の関係について考えてみた。生物の進化において、環境に適応できた個体が残り、適応できなかった個体は淘汰されたという考え方を聞いたことがある。この考え方が正しいとすれば、ある環境下にたくさん生えている植物は、その環境に適した形質を発現する形質と遺伝子を持っているはずである。何らかの理由で多量の二酸化炭素の固定を必要とする植物がいるとしたら、その植物は二酸化炭素の固定作用が大きい葉緑体を持っているだろう。その葉緑体の遺伝子もしくは葉緑体そのものを、劣悪な環境に強い植物に導入して、植物の生えにくい土地に植えたら、今まで植物があまり生えておらず二酸化炭素の固定があまり行われていなかった土地でも、多量の二酸化炭素の固定が行われるようになるので、大気中の二酸化炭素濃度の減少が起こり、地球温暖化対策になるのではないかと考えた。
A:これも非常に素直な考え方ですね。ただ、二酸化炭素の固定能力を高める遺伝子があったとして、それが全ての植物に広まっていない理由を考えてみましたか?もし、メリットだけあってデメリットのない形質であれば、長い進化の過程で必ずやほとんどの生物に広がっているでしょう。現実にそうなっていない、ということは、何らかのデメリットがあるに違いありません。植物の改良というとメリットだけに目がいきがちですが、冷静にデメリットも評価する姿勢が必要だと思います。
Q:今回の講義で一番印象的だったのは、植物の遺伝子に核コードと葉緑体コードが相互作用し合って、タンパク質合成をしていることだった。植物細胞のなかにある葉緑体とミトコンドリアはそれぞれ核とは異なるDNAをもっていてそれが進化における共生説の根拠になっているという話は以前にも聞いたことがあった。私はそれぞれが独自のDNAをもっているからそれぞれでタンパク質を合成して細胞の全体の機能を維持しているのかと思っていた。ルビスコというタンパクは葉緑体コードによって大サブユニットを、核コードによって小サブユニットを合成しそれがくっつくことによって機能できている。大量に合成されるルビスコはひとつひとつが行う仕事量はとても小さいが二酸化炭素の固定に重要な役割を果たしている。核と葉緑体のDNAがそれぞれ独立しているのにどうして協力してルビスコを合成できるのだろうか。葉緑体と核には自身が合成したタンパクによって「酵素量による調節」がなされ、二酸化炭素固定できるようなルビスコを合成できるようになったのだと思う。しかしそれでは考えがあまりに漠然としているように思える。分子レベルでもっと調節の際の仕組みを探っていきたいと思った。
A:オルガネラと核の間の情報交換には、まだ不明な点もかなり残されています。また、核コードの遺伝子の発現とオルガネラコードの遺伝子の発現の相互調節の仕組みは、遺伝子の種類によっても異なる可能性があります。葉緑体の発達調節や光合成全体の活性調節といった大きなレベルでの調節と、ここの酵素の量・活性の調節は、それぞれ意味合いが違うでしょうから、なかなかそのメカニズムを明らかにするのは大変です。だからこそ面白いとも言えるでしょう。
Q:この講義を聞いて共生についてより深く学ぶことができた。特に共生で興味を持ったのは「はてな」であって、どうして「はてな」は共生する必要があるのかについて考えたいと思った。「はてな」は分裂し、片方が緑色でなくなり光合成を行うことができなくなる。それなのにどうして分裂する必要があるのかと思った。しかし、片方だけ緑色にすることによって、片方の葉緑体を持たないほうは全く同じ種の性質を後生まで残すことができ、またほかの植物などと共生することができるため環境の変化に適応できるようにしていると思われる。また、葉緑体を持つほうは光合成を自ら行いエネルギーを体内で自ら生産することができるため捕食などができなくなったときに葉緑体を持つほうで生活することができる。このように「はてな」は2つの性質を持つことで環境の変化に対応しようとしているのだと思う。
A:これは面白い考え方ですね。つまり、生存戦略の多様性を種の中で保持するために、共生体が片側にしか残らないことに積極的な意味を求めるということですね。「はてな」に関しては、以前の講義でもたくさんレポートが寄せられていますが、このような視点のものはなかったように思います。独創的ですばらしいと思います。
Q:今回の授業では主に共生説について学びましたが、共生説以外のオルガネラの発生についての仮説を調べてみることにしました。そのひとつが「膜進化説」です。細菌類の一部に細胞壁がないグループが現れ、それらは餌を直接細胞膜で包み込んで捕食するようになりました。やがてこのような細胞膜のくびれが核膜や細胞内の小器官を作ることになったという仮説が膜進化説です。膜進化説ではミトコンドリアや葉緑体のDNAをそれぞれ独自のDNAとはせず、細胞核のDNAが移ったものとして考えています。しかしそう考えると、ミトコンドリアや葉緑体が現在持っている独自のDNAについての説明がつかないように思います。さらにそれらオルガネラが2重膜で形成されていることなどを考えてもやはり共生説の方が有力なように思いました。
A:そうですね。系統樹を見て頂くとわかるように、決定的なのは、葉緑体のゲノムとシアノバクテリアのゲノムに高い相同性があって、むしろ核のゲノムとの相同性の方が低い点です。DNAが核から移ったのであれば、そのようなことはあり得ないでしょうからね。
Q:今回は、「なぜミトコンドリアを持たない真核生物がいないか。」ということについて考えてみました。現在の視点は、葉緑体のように、真核細胞が好気性の原核細胞を取り込んだことによってミトコンドリアができたことになっていますが、私は逆に考えました。つまり、ミトコンドリアを持ったことによって、真核細胞になれたのではないか、ということです。真核細胞は、小胞輸送やスプライシングなどに大量のATPが必要なので、解糖系だけでは供給が間に合わないのです。現に、酵母でさえある程度混ぜないと、上手くアルコールを作れません。なので、ミトコンドリアは、初めマラリア原虫やウィルスのように寄生目的で原核細胞に入り込み。そのまま共生してしまったのだと考えます。
A:真核生物がそのメリットを最大に生かすためには好気呼吸によるエネルギー供給が必要だ、という点は確かにその通りだと思います。ただ、一度獲得したミトコンドリアを失った真核生物は存在するようですから、そのあたりをどのように考えるかでしょうね。また、ミトコンドリアを持ったのが先だったら、ミトコンドリアは持つけど核は持たない生物が現在残っていない理由を考える必要もありますね。
Q:今回の講義から共生の成り立ちは第一段階の原核生物の取り込みと第二段階の細胞核への遺伝子移行の二つに分類できると思われ、この二つを推測することによって共生の成り立ちについて考えてみた。第一段階の原核生物の取り込みはもともと捕食だったのではないかと思われる。そして、第二段階の遺伝子移行は取り込まれた原核生物の一部の遺伝子が偶然細胞核に導入され発現したものではないだろうか。つまり、真核生物に捕食されたはずの原核生物が何らかの要因で消化されずに真核生物内に残留してしまい、真核生物の中に原核生物が存在するという状況になったのである。それから、遺伝子移行が起こったのだろう。もっとも、真核生物には核膜があるので真核生物から原核生物への遺伝子移行はまずありえないので、原核生物から真核生物への遺伝子移行しか起こらないものと思われる。これが起こる可能性はもともと低いので、原核生物を取り込んで偶然にもより生存に適した真核生物くらいにしか遺伝子移行が起こるまで長続きしないだろうし、仮に生存に適さなかった真核生物に起こったとしてもそれはすぐに死滅してしまっただろう。よって、取り込んだことにより生存に有利になった真核生物のみに原核生物からの遺伝子移行が起こりえたのだろうと思われる。以上のことから、原核生物と真核生物の共生は真核生物が原核生物を捕食にて取り込みそれが偶然にも生存に有利であったがため長続きし、その間に原核生物の一部の遺伝子が真核生物の細胞核へ移行することによって行われたものと推測した。
A:遺伝子移行は、そもそも何のために起こったのでしょうね?メカニズムもさることながら、なぜそもそも遺伝子が移行する必要があったのか、点も考えてみる価値があると思います。
Q:今回の講義で、葉緑体ゲノムから細胞核へ遺伝子が移行したことについて興味を持った。宿主にシアノバクテリアが共生体として取り込まれ、栄養や身の安全などは約束されたのかもしれないが、シアノバクテリアの遺伝子は細胞核に移行し、葉緑体として発現の程度などを支配された。そう考えると、果たして本当に「共生」としてシアノバクテリアは取り込まれたのか疑問に思う。発現の程度が支配されれば一個体としては成り立たず、ただの器官であり、生物としての本質を失ってしまっているのではないだろうか。私の考えとしては、シアノバクテリアは宿主に捕食あるいは偶然体内に入ってしまい、利用されてしまったということである。遺伝子が宿主の遺伝子に組み込まれるのは一見ウイルスのようだが、宿主を食い破り、増殖は出来ないので増えるために取り込まれたのではないと思う。私は、シアノバクテリアやミトコンドリアは生物の進化の道具とされてしまったように見える。
A:この場合、確かに「体」にあたる葉緑体の部分は核の支配を受けるようになったわけですが、一方で、シアノバクテリアが元もと持っていたゲノムの9割を核へ送り込んだとすれば、自分のゲノムを核に寄生させた、という考え方もできるのではないかと思います。そのような考え方との対比も面白いかも知れません。
Q:緑色植物の葉緑体膜は、外膜と内膜の2枚である。9つの真核藻類の中で、2枚の膜だけで囲まれた葉緑体膜を持つのは、灰色植物と紅色植物だけである。ほかの真核藻類の葉緑体膜は、3,4枚である。どうして葉緑体膜の枚数に違いがあるのかを考える。緑色植物と紅色植物、灰色植物は、最初に葉緑体を獲得した一次植物である。そのほかの藻類は、葉緑体の水平移動によって光合成能力を獲得した二次植物である。このことから、一次植物の葉緑体のほうが、二次植物のような後から得られた葉緑体よりも優れていると思われる。例えば輸送に関する面である。タンパク質は、細胞質ゾルから葉緑体膜内に輸送される。二次植物は複雑な輸送システムを持っていないと、タンパク質を正確に葉緑体内に輸送できないのではないかと思う。葉緑体が劣っているので、何枚も膜を通す輸送を行わないと、タンパク質と一緒に不要な物質までが膜内に輸送されてくるかもしれない。また、輸送されたタンパク質が容易に膜外に出てしまう可能性もある。葉緑体膜内の状態を正常に保つために、二次植物では葉緑体膜が3,4枚必要だったのだと思う。
A:輸送の部分に関する部分はよいとして、「一次植物の葉緑体のほうが、二次植物のような後から得られた葉緑体よりも優れている」と考えた根拠について、もう少し説明がないとわかりづらいと思います。
Q:今回の講義を受け、オルガネラの存在意義について興味を持った。生体膜を増やすためにオルガネラを持つようになったという事であったが、だとすれば細胞数を増やす(多細胞生物になる)進化が先に生じてもおかしくは無いのではと感じた。物質・状態を局在化させるためにも、オルガネラとして存在する意義はあるのだろう。しかし、だとすれば、例えばゴルジ体ならゴルジ体の機能に特化した細胞・核なら核として働く細胞など、分化した細胞同士で結合していくような形を取っても、構わなかったのではないか。・・・と、ここまで書いてはみたが、やはりそれは苦しい考えのように思える。生物というのは美しい状態を取ろうとする物だと、私は考える。生命現象を営む効率の良い形態は、自然と美しくなっているのである。DNAの二重らせんであったり、左右対称性であったり。上記の自分の考えでは、形態が美しくない。オルガネラを含む基本単位となる細胞、というものがあった方が美しく、生きる上での効率も良くなるのであろう。
A:多細胞生物が美しくないかどうかは主観によるのではないでしょうか・・・。それはさておき、小さな細胞をたくさんにすれば、表面積は確保できますから、確かにオルガネラに依存する必要はないですね。考え方として非常に面白いと思います。ただ、美しさはともかくも、細胞の独立性は失われることになります。細胞内でオルガネラによって自己完結していれば、どの細胞でも生きていけますが、細胞がそれぞれ分化してしまうと常に全てが一体となっていないと生きていけません。まあ、高等動物の場合は、事実上そうなわけですが。
Q:今回の講義での共生の話とハテナの存在に、「光合成できるヒト」の可能性を見た気がした。「光合成できるヒト」の空想をしたことのある人は多いと思うが、実際にこれを実現させることは可能なのだろうか。例えば受精卵に葉緑体を移植して母体に戻し成長させれば、葉緑体は独自の遺伝子を持つのだから、全身緑色の光合成できる個体ができるのではないか。しかし今回の講義で葉緑体の遺伝子の多くが進化の過程で核へ移行したこと、核と葉緑体が協調していることが説明された。よって葉緑体を受精卵に移植しても葉緑体が独自に増殖してその機能を果たすのは不可能であると考えられる。しかしここで「光合成できるヒト」の可能性をつなぐのがハテナの存在であると考える。ハテナの「動物」である片割れは葉緑体ではなく、一個体として生存している緑藻を取り込んで光合成の機能を得ている。詳しくは説明されていないが、取り込まれた緑藻はハテナの中で、例えば葉緑体以外のオルガネラの退化など、何かしらの共生のための変化をしている筈である。そうでなければ緑藻を取り込んだところでハテナは植物にはなれないであろうからだ。ここで大事なのが、ハテナが緑藻を変化「させた」ということである。これはハテナが緑藻を共生させる遺伝子を持っているということだ。ということはもしこの遺伝子を同定することができれば、そしてこの遺伝子をヒトの細胞に組み込むことができれば、あるいは「光合成できるヒト」を誕生させることができるかもしれない。受精卵に移植するのは葉緑体ではなく、緑藻だ。これらは空想の域を出ない仮定ではあるが、やがて技術が進歩して本当に「光合成できるヒト」が生まれたら、世界は一遍することだろう。少し怖いが、見てみたい気もする。
A:面白い議論ですね。ただ、この議論の前提の「何かしらの共生のための変化をしている筈」というところは、もしかしたら違う可能性もあるのです。単細胞の藻類の多くは、固定した炭素(=有機物)の無視できない量を細胞外に捨てています。この意味は必ずしも明らかではありませんが、光合成生物にとって炭素は「安い」資源であって、より「高価な」資源(窒素なり鉄なり)を効率よく得るためには炭素を無駄にすることも充分にあり得るのです。ですから、単に藻類を自分の中に「飼っておく」だけでも、もしかしたら有機物を得るというメリットはあるのかも知れません。