植物生理学I 第8回講義
マングローブプロジェクト
第8回の講義では、夏休みに4日間休みを取って沖縄に行って、マングローブの根の光合成の実験をした顛末をお話ししました。実質実験をしたのは2日半ですから、そこでやれたことには限界がありますが、それでも、研究の進め方の雰囲気が少しは伝わったのではないかと思います。以下に、8つのレポートをピックアップしてそれに対してコメントをつけておきます。
提出されたレポートに対するコメント
Q:今回の講義内で、根で行われている光合成が藻によるものか根によるものか調べるために根表面のコルク層を剥ぐと緑色の層が見えたというお話があった。根で光合成が行われていると仮定して考えると、第4回の講義より表面のコルク層は死細胞であるから、光合成が行われているのはコルク層の内側の緑色の層であると言える。より効率的に光合成を行うには緑色の層を外側に配置したくさんの光を当てたほうが良いと思えるが外側がコルク層で内側が緑色の層となっている理由について2点考察した。1点目はコルク層による細胞の保護である。マングローブが生育している環境は海水がある。浸透圧の観点から考えると、人間がたくさん汗をかいて体内から大量に水分が失われたときに低張液を摂取して体内に素早く水分を補給するように、塩分濃度の高い海水中に細胞内から多量の水が入り込み、植物の体内の水分が減少してしまう可能性がある。そこで、コルク層のような死細胞で内側の層を守ることで水分を失うことなく海水中で生存できるのではないかと考えた。しかし、これでは緑色の層まで十分な光合成を行うために必要な光を確保することができないという問題が生じる。そこで外側がコルク層で内側が緑色の層となっている理由について、2点目は葉で活発に光合成が行われるのとは違う意味を持っているのではないかと考察する。講義で示されていたように、根よりも葉のほうがはるかに活発に光合成を行っている。葉で行われた光合成により得たエネルギーは成長や子孫を残すために使われていくと考えられるが、根で行われた微量の光合成により生成されたエネルギーは一定時間に生成されるエネルギーも微量で日常的に使用するには向いていない。よっていざという時に使用するため植物の体内に蓄えられているのではないかと考察した。また、根の内側に緑色の層が位置していることで物質をやりとりする道管師管と物理的距離が近い点も何か意味があるのではないかと考えられる。
A:なぜコルク層の内側に根の葉緑体が配置されているという問題設定から、論理的に考察していてよいと思います。ただし、最後の部分の根の光合成の目的については、講義の中で、エネルギー生産ではなく、酸素供給に働いている可能性に少し触れたと思いますので、それとの関係にも一言触れられるとよかったでしょう。
Q:今回はマングローブの呼吸根について光合成の特異性などを研究した話を聞いた。そこでObjectives at the first stageで「呼吸根の葉緑体および光合成システムの特異性を明らかにする。」とあった。そこで私は、バオバブの木が幹が太く葉が少ないことを思い出した。バオバブの木は体に対して葉が非常に少ない。これは幹でも光合成をしなければエネルギーが足りなくなってしまうのではないかと思った。また、バオバブの幹は非常に表面積が大きいため幹で光合成ができると効率がいいのではないかとも思った。このことから、バオバブの木の幹において葉緑体および光合成システムの特異性を調査してみたいと思った。バオバブはマングローブと異なり、水はけのよい土地を好み、太陽光を多く必要とする①。このことから藻類の光合成を考慮する必要はないと思われる。また強光による光阻害も、バオバブは「乾季や水不足の時は葉を落として蒸発を防ぎ、内部に水分を蓄えることで生き続けています。」②とあるように葉を落とすこともある事から幹による光合成において光阻害が起こっては葉がない時期に最低限の光合成もできなくなってしまうと考えた。また、参考文献②によるとバオバブの木の幹の表皮を剥がすとクロロフィルが確認できることがわかっている。このことから、光合成の時間経過による失活についてはヤエヤマヒルギの呼吸根と同じ現象が起きそうである。私は今回の研究の話を聞きバオバブの木の幹でもヤエヤマヒルギに使用したようなクロロフィル測定器をベースに改良すれば測定できそうであるため、機会があるならばバオバブの木の幹の光合成について今回学んだ目標設定と検証を繰り返す「研究」をしてみたいと考えた。
[参考文献]① “バオバブ:マダガスカル島の固有植物”.マダガスカルツアーサービス,http://www.madagascar-tour.jp/baobab/index.html,(参照2020-7-4)、②“Vol 9.バオバブの木”.オーストラリア貿易投資促進庁 オーストレード,https://www.austrade.gov.au/local-sites/japan/buy-from-australia/industry-information/flower9,(参照2020-7-4)
A:面白いと思います。自分の土俵に引っ張り込んで論理的に考察する能力は、非常に貴重だと思いますよ。
Q:今回の講義で議論されていたマングローブ樹種の呼吸根における光合成活性だが,体内時計のような仕組みが関係しているのではないだろうか.コルク層下の緑色の層の細胞に存在する,ある体内時計タンパク質は,日中の強光,高温下においては分解され,夕方ごろ遅い時刻の弱光下,昼よりも低い温度下では分解されなくなって,発現量が増え,夜の間に蓄積されていく.緑色の層にあるクロロフィルには,クロロフィルを不活性な状態に保たせる物質がもともと結合しており,体内時計タンパク質はこれをクロロフィルから外す(あるいは分解する)役割を持っている.このように考えると,日中に干潮だったことを踏まえて海水をかけてほぼ同時刻に実験しても光合成量がそこまで変化しなかったことの説明がつくのではないかと考えた.また,パラソルで遮光した状態で光合成活性が回復しなかったのは,温度が下がりきらなかった事が原因なのではないかと考えられる.まず,呼吸根の光合成活性に干潮と満潮は関係しておらず,1日のうちの時間帯と温度差が関係している事を確認するためには,この4日間とは異なる干潮・満潮時刻の時期に緑色の層の光合成活性を測定し,4日間での結果と同じ測定結果が出れば,干潮・満潮は関与していない事が明らかになると考えられる.また,このタンパク質がクロロフィルの活性を制御しているかどうかは,日中の光合成活性が低い時と,遅い時間帯で光合成活性が少し高くなっている時でタンパク質の定量をして,遅い時間帯の方がタンパク質含有量が多ければタンパク質が関与している事が確認できると考えられる.
A:体内時計について取り上げたレポートは他にもいくつかありましたから、独創的とまでは言えませんが、きちんと考えていてよいと思います。環境条件の中で、問題となる条件を切り分ける考え方は、研究を進める上で重要なポイントです。
Q:測定しているのが表面の藻類の光合成ではないという証拠が欲しいという話があったのでその方法について案を考えることにした。根での光合成は呼吸を維持するためだけに行われるとすると、葉で十分に光合成が行えるだけの光がある場合には光合成をしない仕組みと、そして根にはクロロフィルを全体が緑になるほど集中させつつもコルク層で日光を遮り絞ることで弱い光を、根の広い範囲で他所への受け渡しを挟むことなく組織ごとに必要量のみ集める仕組みを持っていると考えられる。これらを理由にコルク層の構造による光の遮断が重要だとすれば、コルク層の外側半分をはぎ取るという方法は構造が薄くなり光を遮断する機能を損なうことになるのでふさわしくない。根のコルク層の機能を損なわずに藻類が存在しない根を準備するためには、コルク層をとった後の根に本来のコルク層と光の減衰率の近いスポンジや布を巻き付けてコルク層を再現することが必要なのではないかと考える。これを実際に行う場合にはまずコルク層の構造と光の減衰を正確に測定しなくてはならず顕微鏡による解析や光度計による測定が必要である。また光の遮り方がコルク層の材質に近いものを再現できないのであれば、他の根から洗浄したコルク層をとってきて測定用の根に巻き付ける方法でも洗浄に時間を要する点は解消されるのではないかと考える。また藻類は光合成の測定では邪魔な要素であるが、コルク層による光の減衰が藻類の発生を前提としている可能性は否定できないため、藻類のついたままのコルク層による光の減衰も合わせて測定し再現した素材を根に巻き付けることも同様に行うべきと考える。
A:コルク層による光の減衰自体が実は重要なのではないか、という視点はよいと思います。例えば、園池研では、マメ科の植物の莢の中の豆の光合成も扱っていますが、そのような場合、莢から取り出した豆で光合成を測定しても、それが本来の莢の中での光合成の推定に役立つのか、という問題が常に生じます。
Q:本講義でマングローブを例にして根に葉緑体をを持つ、あるいは光合成を行うかもしれない植物が存在するということを学んだ。根が光合成を行うかについて、局所的に光を遮断することが解決の糸口であると考えた。根に菌が付着していると仮定する。そして根だけ光を遮断する条件を用いて、ある程度放置する。そうすると植物のほうは他器官が光合成をするので根には栄養が行き届く。しかし菌は光合成をできなくなったことで栄養源を失い酸素を各細胞に提供できなくなるため、菌は死滅してしまうと考えられる。こうして疑似的に菌がいなくなった状態を作り出すことができる。この状態を作った際の結果と制限をかけなかった条件を比べることで、菌が根に付着しているか、を判別できると考えた。
A:これは、講義を聞いた人には何を言っているのかがわかりますが、知らない人が読んだらちんぷんかんぷんですよね。レポートは、会話ではないので、独立に読んで意味の通る文章にしてください。また、「菌」というのは「藻類」のことですね。ただ、藻類を除去するのに、継続的な暗条件を用いるというアイデアを出した人は初めてだったので、ここで取り上げることにしました。
Q:私は、生物学専修の研究内容に大きく影響され、高校のときからやりたい研究内容や取り扱いたいテーマが決まっていた。そのため、研究テーマが可塑的であることを本講義で聞いて、少し我に返った節があった。同時に、研究のうち立て方について疑問を持った。見つけたいあるいは知りたいことから逆算して研究を計画するのかと思っていたため、発見は結果論に過ぎず、偶然の産物が多いのかと思うと少し残念であった。
A:確かに、偶然の要素が大きく働くことは否めませんが、その偶然を生かせるかどうかは研究者次第です。何か、予想と違った結果が得られたときにそのまま見過ごすのか、その中に面白い発見がありそうだな、と追求できるか、それが研究者としての資質を大きく左右します。世の中に言う「セレンディピティ」というのも、そのたぐいでしょう。
Q:問題提示をして、実験・測定を行ない、結果の考察をしたのち、また新たな問題提示を行うという過程によって大きな発見がなされると学んだが、何回も研究を重ねて新たな発見があった場合に論文の全体像を考えるのが難しそうだと思った。始めの研究で挙げた問題点とその測定から得られたら望ましい結果とはかけ離れた目的や結果になっている可能性が高く、実験を重ねて研究目的が変われば変わるほど、内容が一貫した論文としてまとめるのが難しくなるのではないかと考える。自分が卒業論文を作成するときには、実験の目標はあまり変わらずに望ましい結果が得られるまで実験や測定を繰り返すため、真に新しい発見を求めて研究をすることになるとしたらまだ何年も先のことだと思う。しかし考察の先に新たな問題を提示して研究が続くことを意識し、普段レポートを書く際にも実験の全体像を意識しながら書けるように訓練していこうと思う。
A:「何年も先」とまでは言わなくてもよいと思いますよ。研究室に配属される学生を見ていると、変わる人は卒研の1年だけで大きく成長します。学ぶ気のない学生は変わりませんが。そして、すぐ下に書きますが、少なくとも研究論文に関しては「全体像」は必要ないことも多いのです。
Q:研究をするときは、実験結果やディスカッションをふまえてテーマを逐次変更しながら進めていることが分かった。しかし「論文を書く」という点だけを考慮すれば、テーマは一貫していた方が良いと考える。卑近な例だが、私はこの植物生理学のレポートを書くときに、書こうと決めたテーマについて調べて予想と異なるデータが出てくると、テーマに修正を加えながらレポートを書いてしまう。そうすると論点が曖昧になって文章全体の論理展開が不明瞭になったり、データにとらわれた独創性のない凡庸で冗長なレポートになりがちだと常々感じている。研究のテーマを修正して実験をし、論文にまとめる時もこれと同じことが起こると考える。実験結果のデータが増えれば増えるほど新たな疑問点や不明な点が出てきて、論理的に説明しきれない点が出てくると考えられるからだ。もちろん自然を相手に実験をするうえで、自分の予想通りの結果がすぐに出ることはなかなか無いと思われるため、異なる角度から実験を繰り返すことは必要不可欠だと考えらえる。しかし実験のデータが増えるほど、それを論理的に過不足なく説明し通すことは困難になると考えらえる。そのため研究結果を論文にまとめることだけを考えれば、一貫したテーマに沿った実験だけを行った方が論理的で簡潔な論文を書きやすいと考えらえる。
A:卒業論文の場合は、その1年間のまとめとして全体像を示す必要性もあるかもしれませんが、学術雑誌などに掲載する論文の場合は、そもそも全体像は必要ないのです。生物学演習で教えていますが、研究成果を論文にする際には、最終的に得られた結果からどのような面白い結論を導き出せるかを考えて、その結論に必要な結果を抽出し、その結論が回答になるような目的を設定する場合が多いのです。その結論を導くのに必要のない結果は、容赦なく削っていくことになりますし、研究目的は論文を書く最後に決まります。実際に実験で得られた結果の内、論文に図として掲載される結果は、ほんの数分の一ということが多いでしょう。では、削られたデータには意味がないのでしょうか。よく、修士論文発表会などで、発表に対する批判として「厚みがない」という言葉が使われることがあります。これは、発表されたデータがすべてで、それをサポートするような実験を全く行っていない場合に使われる例が多いようです。「一貫したテーマに沿った実験だけを行った方が論理的で簡潔な論文を書きやすい」というのは正しいのですが、あらかじめ人が頭の中で考えたストーリーに沿って結果が並んでいるだけ論文は、つまらないことが多いということでしょう。では、人が頭の中で考える以上のことをどのように見つけるか、と言えば、それが実験です。自然科学者にとって実験とは自然との対話です。自分の頭では考え付かないような斬新なアイデアを自然との対話から見つけ出すのが、自然科学のだいご味である、というのが僕の信念です。