植物生理学I 第4回講義

光合成の起源

第4回の講義では、光合成の進化の過程を、光合成細菌からシアノバクテリアへ、そして葉緑体へとたどって解説しました。講義に寄せられたレポートとそれに対するコメントを以下に示します。


Q:今回の講義で、シアノフォラが二重膜の間にペプチドグリカンの層を持つことを学んだ。これは葉緑体が細胞に共生しているという事を示す大きな手がかりである。この層が残っているのは、シアノフォラで最近共生が起きたからだと考えられる。では細胞壁をもつ生物にシアノバクテリアが共生したら、二重の細胞膜と細胞壁をもつ葉緑体様の構造がある生物が観察できるのだろうか。それを発見するためにはどのようなところに着目して探せばいいのだろうか。発見できる可能性は2通りある。一つ目は、最近共生が起きた生物を探すことである。未だに原始的な生物が生息しているところを探せば、運よく見つかるかもしれない。二つ目は、その構造を生きるために必要なものとして獲得している生物を見つけることである。細胞壁は細胞構造を支持する。もし、ひとつの細胞が海のように巨大な生物がいるとしたら、その細胞に共生してその中で構造を維持するのに細胞壁が必要になる。そのような巨大生物がいるとしたら、細胞が大きくても耐えられる圧力のかからない宇宙のような無重力空間かもしれない。では、逆に深海や重力の強い惑星のような非常に圧力がかかるところはどうだろうか。圧力に耐えるためにオルガネラも細胞壁を必要とするかもしれない。どちらにしろ、未だに調査が及んでいない領域で人智を超えた生物がみつかる可能性が大いにあると考えられる。

A:面白い点に着目していてよいと思います。ただ、共生するときには、宿主が自分の細胞膜をくぼませて共生体を取り込んだと考えられますから、細胞壁をもつ宿主だと、そもそもかなり難易度が高いように思います。


Q:今回の講義では共生説について学んだ。真核生物が好気性細菌と光合成細菌をそれぞれ取り込んだものがミトコンドリアと葉緑体であるり、これらのゲノムの一部は宿主の細胞核に取り込まれている。現在はオルガネラとしては残っていないが、他にも共生者がいたのではないかと疑問に感じた。共生者の生産するタンパク質のうち、自身にプラスとなるタンパク質のゲノム情報だけをとり、その共生者を排除したのではないだろうか。ミトコンドリアや葉緑体はゲノムをすべて与えなかったため現在もオルガネラとして残っていると考えられる。そして、真核生物のゲノムサイズが大きいのは共生者のゲノムが核に取り込まれているためではないだろうか。

A:これも着目点は面白いと思います。ただ、短い中に複数のポイントがあるので、アイデアを示しているだけになってしまっています。できたら、ポイントは絞って、もう少しそのアイデアを論理的に展開したレポートにするとよいでしょう。


Q:現在は、原核生物と真核生物が存在している。以前は原核生物のみが存在しており、その後真核生物が誕生した。双方が存在しているのだから、そこに優劣は存在しないが、原核生物かオルガネラをもたないのは、ちいさいからではないか、という考えが授業ではあげられた。真核生物が誕生したのは、葉緑体やミトコンドリアの起源となる生物が1つの細胞内で共存できた結果であろう。なぜ共存できたのであろうか。原核生物のみが存在した時代、各々の原核生物は自己完結で生存していただろう。しかし、各々の生命活動による産物を利用していたはずである。そう考えると、真核生物は原核生物が広い外界で生きているのを1つ1つの細胞内で実現していると考えられる。真核生物はそうすることで自分のサイズの変化にも対応できたのであろう。真核生物は、原核生物の生きている世界をその細胞内で実現することによって誕生できたのではないかと考える。

A:これも面白いのですが、やや抽象的ですね。もう少し具体的な事実に基づいて議論できると科学的なレポートになります。最後の一文など、エッセイの決めの文句としてはなかなか良いと思いますが、では、その具体的な意味はと考えると難解です。


Q:授業で植物は真核生物がシアノバクテリア由来の葉緑体を取り込んで共生してできたものだと学んだ。ここに関して以下の二つのことに注目する。一つは、動物が葉緑体を持つことが可能なのか。次に葉緑体を機械に応用できないかである。前者では植物のように動くことができないよりも、より光や水のある場所や、捕食されないような場所に移動できるようにする方がより光合成を効率よく行うことができると考えられる。また、活動するエネルギーを自分で生み出すことができれば、太陽の光さえあれば何も食べなくても生きていくことができる。では動物細胞に葉緑体を組み入れると、単純に葉緑体がしめる体積と質量が増える。葉緑体の直径は5 - 10μmであり、一つの細胞の直径を30μmですべて立方体とすると3%の大きさである。植物細胞では1-1000個存在しているように、葉緑体は一つの細胞に一つではなく多く存在するものである。これだけの大きさのものが増えて、質量も増えると元来の動物の働きをするのが困難になる。よって葉緑体を動物に持つことは、細胞一つの大きさを大きくする、質量が増える分表皮細胞のみ葉緑体を存在させる、質量が増えても動けるように身体を順応させるなどをすれば、可能であると考えられる。後者では光エネルギーを光合成によって作られた化学エネルギーを発電などに利用できないかと考えた。太陽パネルは光エネルギーを電気エネルギーに変換している。同じように植物細胞で起こっているような仕組みを再現することができれば、電気を作るだけでなく、二酸化炭素を吸収して酸素を放出することもできる。細胞内と似たようなイオン構成をもった液を作製し、光合成を行えるような環境にする。次に光合成によってできた化学エネルギーを電気エネルギーにかえ装置を作れば可能だと考えられる。

A:細胞の体積については、植物細胞と動物細胞の違いに注目する必要があります。植物細胞の場合、細胞の体積に非常に多くの部分を液胞が占めており、ある意味で「水増し」された状態になっています。なお、二つのポイントに注目していますが、二つの間にはそれほど関係がないようですから、この講義のレポートとしては一つだけ取り上げれば十分です。論理さえきちんと展開していれば、長く書く必要はありません。むしろポイントを抑えて短くまとめる方が評価できます。


Q:「シアノバクテリアはかつて藍類に分類されていたが、実際は細菌類だった」とある。生物学の世界ではこうした間違いというのが沢山あると思う。こうした間違いが何故起こるのかを考えてみた。とあることをきっかけに、「オカピ」について調べたことがあった。オカピは外見上から奇蹄目のシマウマの仲間と考えられていたが、実際は偶蹄目のキリン科であった。このように生物を分類する上で外見や性質だけで判断するのではなく、根本的な部分で判断するべきであると考えた。

A:話題は面白そうですが、いかんせんこの短さだと論理展開が不十分ですね。短いから悪い、というわけではありませんが、問題点を定義して事実や論理によって一定の結論を得るためには、最低限の長さは必要になると思います。このレポートの場合、特にオカピがキリン科であったことがどのような「根本的な部分」によって判断されたのかが重要なポイントになると思います。


Q:葉緑体は光合成細菌が真核細胞に共生したことで生まれたのだとする共生説のことは以前から知っていたが、今回の講義でその内膜と外膜は成分が異なり、内膜は光合成細菌由来、外膜は真核細胞由来と考えられていることを初めて知った。そこで疑問に思ったのだが、未だに光合成細菌がエンドサイトーシスされた時のまま、葉緑体を包む膜が二枚である必要があるのだろうか。葉緑体においてクロロフィルはチラコイドに存在するのであって内膜や外膜に光合成能はないため、これらの膜がグラナのように光を効率よく吸収するための表面積稼ぎに貢献しているわけでもなく、またチラコイドの外側を二枚もの膜が囲んでいてはチラコイドまで到達する光の量が減るだろうにもかかわらず、内膜、外膜、どちらも未だに存在していて良いのだろうか。参考文献(1)によると「外膜は電子顕微鏡的にほとんど粒子の観察されない平滑な膜である。内膜は内部の膜構造であるチラコイドに似ており,膜内には多くのタンパク質粒子が観察できる。」とある。内膜は確かに光合成細菌が自己の活動のために元々持っていた種々の膜タンパクを含むであろうから消滅させると都合が悪いと考えられる。それに対し外膜は真核細胞の細胞膜由来なのでなくてもかまわないと考えられもするが、「ほとんど粒子の観察されない平滑な膜」ならば特に色素等を多く含むわけでもなく、従ってチラコイドの光吸収を大いに妨げることはないと考えられる。さらにいえば細胞膜の厚みは一般に7~10nm程度で、チラコイド膜の7nmと比べてもあまりにも厚すぎて光を遮るということもないと考えられる。よって、葉緑体が一重膜にならないのは、内膜に関しては葉緑体の活動のため、外膜に関しては特に消化する必要もないから、と考える。
参考文献:(1)"光合成の場"、啓林館 ユーザーの広場, http://www.keirinkan.com/kori/kori_biology/kori_biology_2_kaitei/contents/bi-2/1-bu/1-3-2.htm (2014-5-4参照)

A:問題点がきちんと定義され、調べた事実をもとに論理的に結論を得ているという点で、よいレポートだと思います。なお、ここでは調べた事実を使っていますが、それ自体は必須ではありません。自分なりの「理屈」を考えて、結論を導いてしまっても、それが具体的なものであれば一向にかまいません。


Q:4月29日の授業では光合成をする生物の分類についての話に触れた。その授業では分類とその「視点」に関する話があったが、サイエンスに関しては「視点」というものが重要性を持つことが多いように思われる。例えば、発酵や腐敗といった言葉も「視点」による分類の一つとして考えられる。これらは人間の「視点」から見て、利益がもたらされるか、不利益を被るかという点において分類されており、極めて恣意的・主観的な分類であると言える。一方、化学の「視点」を基に考えると、これらの反応は同一のものであると認識される。このように、サイエンスによる「視点」では基準が定まっているため、客観的な考えが為されることが多い。逆に言うならば、客観性を持たない考えはサイエンスとしては好ましくないと考えられているのだろう。よって、物事を科学的に判断するのであれば、その判断基準が一定のものであるということに注意する必要がある。では、生物の分類に関してはどうなのだろうか。私が考えるに、生物学は自然科学の他の分野とは異なり、多様性に満ちた分野である。そのため、共通性のみで物事を論じるだけで学問として完結するとは到底考えられない。故に、生物学に関しては多様性を考慮したいくつもの「視点」による解釈が必要であると考えられる。

A:このレポートは、それこそ自分なりの視点があってよいと思います。植物生理学の講義のレポートではありますが、話題はこのようなものでも、それが自分なりの視点で論理的に議論されていれば、十分です。


Q:(ほぼ)すべての動物を支える植物が、光合成能力を得るまでの過程について学んだ。植物を核DNAを基に分別し、植物系統樹をつくると、光合成生物と非光合成生物が法則性無く並んでいるらしい。対して、葉緑体のDNAを基に分別すると、光合成生物と非光合成生物が正しく体系化される。つまり、あるときシアノバクテリアの祖先と共生を始めた、幾つかの、植物(になる)細胞が光合成生物となったことが推察される。これは授業の内容であるが、では、「なぜシアノバクテリアと共生しない道を選んだ細胞がいたのか」という疑問を提起してみよう。「シアノバクテリアと生活圏が違った」という仮説を立ててみる。当時の地球は陸上生物などおらず、生活圏はすべて海である。しかし海は広く、深いので、シアノバクテリアと居場所を異にした細胞など掃いて捨てるほどいただろう。あるいは、「シアノバクテリアとの共生関係が、何らかの理由で破綻したため消化してしまった」という仮説も立てられる。細胞が二重膜構造を得る過程についても授業で触れた。そのとき、「細胞は異細胞を取り込み、体内で飼う。後にエネルギーを排出せず、役立たずになったところで消化してしまう」という説明(仮説?)を先生が仰られていた。緊急に大量のエネルギーが必要になった、などの理由で、シアノバクテリアすら消化してしまわないといけない状況になったことがあるのではないか。

A:わざわざ「これは授業の内容であるが」と書いているので、意識しているのだと思いますが、ここまでの部分は特に必要ありません。問題点を定義して以降は、仮説を立てて、それに基づいて議論を展開していてよいと思います。


Q:原核細胞は小さいためエネルギーをあまり必要としないが、真確細胞は大きいため特定の物質を取り入れるためにはエネルギーが必要になる。これは体積に比べ表面積はそれほど大きくならないからである。この話を聞いたときに、生態学で習った大型の種ほど寒冷な地域に生息するという法則を思い出しました。これは大きくなるほど体温が奪われにくくなるからだそうです。エネルギーを取り出すためには多くの化学反応が関係してきますが、その際反応を進めるためにはある程度の熱が必要になります。その熱を維持するために、ある程度の細胞の大きさが必要だったのではないでしょうか。温暖な地域ではあまり関係ないかもしれませんが、少し寒冷な地方で細胞が生きていけるようになったのは、様々なオルガネラを吸収し細胞がある一定の大きさになることができたのも理由の一つではないかと感じました。

A:着目したポイントは面白いと思います。ただ、生物を考えるうえで、哺乳動物のような恒温動物を中心に考えてしまっていますね。人間がそうだから無理もないのですが、初期の共生が起きたころの生物は、細胞の温度を周囲の環境の温度より高く維持する、という戦略は取っていなかったと考えられます。


Q:前回の授業の中に、現在の陸上植物は7回以上のシアノバクテリアと共生が起こった可能性があるという話があった。これは葉緑体の起源がシアノバクテリアであることを前提に、葉緑体のゲノムを比較した結果出た結論だったと記憶している。ここで一つの疑問が浮かぶ。7回も共生が起こったのに、狭義の光合成細菌が葉緑体の起源の一つにはなり得なかっただろうか。 授業ではシアノバクテリアと光合成細菌の違いとして酸素の放出の有無、クロロフィルの違い、光化学系が1種類か2種類かの3点が挙げられていた。まずクロロフィルの違いは吸収する光の波長の違いに関係する。しかし果たす役割は同じなので光合成細菌で共生が起こり得ない理由にはならない。次に光化学系の種類は、光合成細菌の種類によって光化学系2に似ているものと光化学系1に似ているものとがいる。しかし両方の光化学系を持つ光合成細菌はいない。すなわち光合成細菌とシアノバクテリアには光合成の効率という面で明確な差があるものと考えられる。よってこれは光合成細菌で共生が起こり得ない理由になると考えられる。最後に酸素の放出の有無についてだ。共生が起こった細胞の中にミトコンドリアがすでに存在していた場合、酸素の存在は非常に重要であるため、酸素を放出するものと共生すれば爆発的なエネルギーを安定して生み出すことができる。酸素を放出しない光合成細菌が共生してもシアノバクテリアと共生した細胞に生存競争で敗れると考えられるため、これは光合成細菌で共生が起こり得ない理由になると考えられる。以上より3つの違いのなかで光合成細菌で共生が起こり得ない理由になるのは2つだったが、そのうち酸素放出の有無が大きな要素だったと考えられる。さらにこのことからシアノバクテリアとの共生の最大の利点は酸素を安定して供給されることだったと考えられる。

A:狭義の光合成細菌が共生をなぜ起こさなかったのか、という問題提起は新鮮です。これで十分に面白いですし、十分すぎるほど長いのですが、もう少し考えるとすると、光合成細菌の中には、バクテリアマットという構造を作って、ほかの細菌と一種の共生状態を保つものがあります。これは細胞内共生ではありませんが、そのあたりも含めて議論を展開すると、もっと話を膨らませることは可能です。