植物生理学I 第9回講義
光合成の初期過程
第9回の講義では、光合成系が光エネルギー用いて電荷分離を行い電子を伝達する仕組みについて解説しました。講義に寄せられたレポートとそれに対するコメントを以下に示します。
Q:光合成色素のアンテナ機能について考察する。「クロロプラスト中の大部分のクロロフィルは光を集めるアンテナの役割を果たす。吸収された光子のエネルギーはアンテナクロロフィル間を励起エネルギーとして移動し,アンテナクロロフィルよりも励起エネルギーの低い反応中心クロロフィルに集められる。反応中心クロロフィルは,タンパク質,電子伝達補因子,クロロフィル二量体(特別ペア, special pair)からなる複合体である。」http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/photosyn.htm (福岡大学機能生物化学研究室講義資料代謝マップより7月10日現在)という前提より、アンテナ光合成色素の移動経路に方向性があるのだろうか、と疑問を持った。わたしは発達していると考える。なぜなら照光方向がある程度定まっていたとき、クロロフィル360度がエネルギーの入口かつ出口であるより、固定の動線が確保され、頻用される方がスムーズなエネルギー運搬行程が発達しやすく、結果として効率よいエネルギー運搬がなされる、と考えられるからである。いくつかのパターン考えられる。「クモの巣様式」、「川様式」、「ハブ空港様式」、などである。これらの経路の存在の有無、発達の形式を調べることによって、種による差異、生育環境による差異、などがみられると考えられる。また、アンテナ色素とその経路を確立することは、反応中心色素の分布にも影響を与えるのではないかと考えられる。
A:実際は「一つ穴の狢方式」のようです。それぞれのアンテナ色素が励起されると、色素の集合体は全体として一つの励起状態になり、そこから、反応中心色素が励起された状態に移行します。つまり、色素一つ一つをたどっていくのではないらしい、ということです。これは、一種の量子力学的な効果ですが、光合成系では通常の条件でもこのような量子力学的な効果がみられることが最近分かってきました。
Q:この講義では主に、光合成の酸化還元反応について学びました。その中で、シトクロムb6/fがクロロフィルを持つのは、シグナルとしてエネルギーを吸収するためと考えられる、ということを学びました。しかし僕は、クロロフィルを持つのはシトクロムb6/fが光化学系IまたはIIのどちらかに由来しているためである、という仮説を考えました。植物生理学Ⅰの過去の講義で、光化学系を1種類のみ持つ光合成細菌について、緑色硫黄細菌(光化学系Iのみ持つ)と紅色光合成細菌(光化学系IIのみ持つ)が存在する、ということを教わりました。ここから、光化学系を1種類のみ持つ生物同士が共生を行う際に、光化学系を2種類持つ光合成システムを構築するためにシトクロムb6/fの様な中間系が必要となり、このシトクロムb6/fの由来となったのがどちらかの光化学系である、と考えました。この理論を証明するために、僕は以下の実験を考えました。まず、光化学系I・光化学系II・シトクロムb6/fをクロマトグラフィー等で抽出します。その後、それぞれの吸光度を測定し、シトクロムb6/fの波長が光化学系IとIIのどちらに近いかを測定します。この実験から、仮に光化学系IまたはIIのどちらかの波長とシトクロムb6/fの波長がほぼ同じであった場合、シトクロムb6/fは光化学系IまたはIIに由来していると言えます。また、光化学系IとIIの両方とは異なる波長であった場合、この仮説は誤りであることが言えます。
A:面白い考え方で、評価できるレポートだと思います。ただ、実際には、光化学系に結合したクロロフィルは1つの状態にあるのではなく、タンパク質との相互作用の違いによっていろいろな吸収を持っています。ですから、クロロフィルの吸収だけで、それがどちらの光化学系に近いのかは残念ながらわからないでしょう。
Q:今週はZスキームやQサイクルなどについて学びました。光は波長によってエネルギーが異なり、そのエネルギーはE = h×c/λ(E:エネルギー、h:ブランク定数、c:光の速さ、λ:波長)であるので、波長の短い光ほどエネルギーが強い。Zスキームについて考えてみると、光化学系IIにおいて680nmの波長の光を利用して光励起を行い電子にエネルギーを与えているが、680nmの光ではなく、もっと短い波長の光、例えば紫外線などを使用したほうがより電子にエネルギーを与えることができ(=Zスキームの矢印が伸びる)、最終的に得られるエネルギーが大きいように思える。なぜ短波長の光を利用しないのかを考えてみた。
まず、紫外線領域の中でもUVCはほとんど地表に到達しないので量的問題により利用することができないだろう。また、UVAとUVBはDNA傷害作用をもち、またエネルギーは高いが量は少ないため、エネルギー×地表に到達する総量が低く、そのために利用されないのだと考えられる。参考文献の太陽光の波長とその強度の表を見て、その波長の光のエネルギー×地表に到達する量を計算すると550nm付近の光が最も高く、650nm付近の光も強かった。光合成は光がある限り常に行われる反応であり、また地球は朝・昼・夜と時間が変わるに連れて到達する波長の強度も変わるので、(ex:夕方になると空が緋色になる)夕方の長波長が強くなる時間帯のことも考えると光化学系IIにおいて長波長である680nmの光を利用するのは理にかなっていることがわかる。
参考文献:JIS C 8910:2001/AMENDMENT 1:2005、『太陽エネルギー読本』10 頁〔村井潔三〕(オーム社 1975)
A:光化学系IIは680 nmの光を吸収しますが、それより短波長の光を吸収しないわけではありません。クロロフィルは青い光も吸収できますから、それも使えますし、また、別のアンテナ色素(例えばフィコビリン)があれば、緑色の光を吸収してそれをクロロフィルに渡すこともできます。反応中心色素として重要なのは、どの程度長波長の光まで吸収できるか、という点です。それより短波長の光は、エネルギーを損してよければ原理的には波長をいわば変換して反応中心に渡すことができます。ちょっと難しいかな?
Q:光合成の電子伝達では、光化学系II、光化学系Iという2つの光化学系によってなされており、その間をシトクロムb6/f複合体がつなぐ形を取っている。では、なぜこのように2つの光化学系が独立して電子の伝達を行っているのだろうか。これは、両者の励起エネルギーの違いによると考えられる。光化学系IとIIの励起エネルギーは、光化学系IIの方が高い。仮に光化学系のIとIIが隣同士で存在していたとすると、励起エネルギーの差により光化学系IIに吸収された光子エネルギーは、大部分が励起エネルギーの移動により光化学系Iに流れてしまう。結果、光化学系IIは光化学系Iの集光アンテナになってしまう。両者が離れて独立しているのは、このことを裂けるためであると考えられる。
参考文献:ヴォート基礎生化学 田宮信雄 等訳 東京化学同人 2000年
A:なるほど。これは面白い考え方ですね。光化学系Iと光化学系IIがくっついていてはいけない、ということですね。それはその通りかもしれません。ただ、距離を離すためにシトクロムb6/f複合体が必要かどうかはわかりませんね。チラコイド膜は実際には2次元なので、シトクロムb6/f複合体が光化学系を完全に取り囲まない限り、物理的な障壁としての役割は期待できないでしょうから。離れている成分の間のやり取りをするというだけでしたら、プラストキノンやプラストシアニンは移動性の電子伝達成分ですから、これらが離れた2つの光化学系の間の電子のやり取りを仲介すれば、それでよいように思います。
Q:今回の授業では植物生体内での光化学系について学んだ。そこで反応の始まりといっても過言ではない、光化学系Ⅱの反応中心に関して興味を持ったのでその電子伝達機構についてもう少し詳しく調べた。
まず光子を受け取ったpigment moleculesは周辺色素を経て、P680にそのエネルギーを送る。そして励起状態のエネルギーを用いてP680は電子を出し、最初の受容体に受け渡す。そこでP680は1つ電子を失ってしまうので、水から酵素を利用して電子を取り出し、P680に充てる。(*1)
そこで以前の授業で光を当てすぎることでも光合成の速度は下がってしまうことを学んだ。今回のレポートでは、その理由の1つがここに隠されていることを考察する。P680が電子を受け渡した後、水から電子を受け取るまでの間、P680は電子の足りないラジカルな化合物となってしまう。そのことで植物生体内に少なからずダメージを与えることが考えられる。よって光が強すぎるとP680にとってより長くラジカルでいる機会が増えてしまい、植物生体にダメージを及ぼしてしまうために、光を当てすぎても光合成の速度が下がってしまうと考えられる。なお光を当てすぎると光合成速度が落ちる原因はそれだけでないと考えられる。例えば光が当たりすぎることで葉の温度が上がり、生体内の酵素活性が落ちてしまうことが挙げられる。その酵素には水からP680に電子を供給する酵素もあり、より先述の影響が増えてしまう。
(*1) 小林興 監訳 丸善出版「キャンベル生物学」
p.212,213 非循環的電子伝達
A:ここで一番重要なことは、P680が水を酸化できるぐらい強い酸化剤だという点です。同じことは光化学系Iの反応中心クロロフィルであるP700でもおきますが、こちらは酸化還元電位が低いため、ラジカルの状態になってもそれほど悪い影響を与えません。P680の特殊性だと言えるでしょう。
Q:光の波長に対する酸素放出量のグラフは、だいたい平らなグラフを示していた。このことから、短波長でも長波長でも同じエネルギーであることがわかる。一か所くぼんでいる箇所が存在するが、これはβカロテンの吸収域であり、光は吸収するが光合成にはあまり寄与していない。しかし、一植物の光合成という観点から見るとあまり重要でないこのような箇所も、植物全体の光合成なら意義が増すように思う。全ての植物が光が十分な環境に生息できるわけではない。林床に生息する植物や、比較的深い深度に生息する藻類は、利用できる光の量や波長域も限られているだろう。一般の植物の波長域の穴を埋めるような形の波長域を持つ植物も存在すると考えることができる。よって、植物の波長域のうち光合成寄与の少ない箇所も、植物全体で見ればただ単に光合成量が少ない箇所ではないのではないかと考えられる。
A:面白い考え方だと思います。ただし、講義の中で見せた図は、酸素発生の量子収率のスペクトルで、吸収光当たりの酸素発生ですから、そもそも吸収されなかった光はカウントされません。吸収光当たりでなく、照射光当たりの酸素発生は、作用スペクトルといいます。作用スペクトルを考える際には、このレポートで考慮されているようなことは充分意味を持つ可能性があります。
Q:光化学系II・Iを接続することで、「地球上にありふれた物質」である水を光合成に利用し、植物は繁栄することが出来たと聞き、私はすぐ「他の『ありふれた物質』は利用出来ないものか」と考えていた。その候補として、第一に思い付いたのが窒素分子である。空気中には酸素の約4倍存在するし、地球以外の惑星にも恐らくは大量に存在しているだろう。しかし、すぐに私は自分のこの考えを否定するに至った。主な理由は2つある。第一に、窒素分子は非常に水に溶けにくい。「溶解と溶解度」について解説している、啓林館のページhttp://www.keirinkan.com/kori/kori_chemistry/kori_chemistry_2/contents/ch-2/1-bu/1-4-1.htmの下部の表からも分かるように、窒素は「水に溶けにくい」気体である。同じく難溶の水素や酸素より溶解度が低い。初期の光合成生物をはじめ、生命は水中にて誕生し、長い歳月をかけて陸上への進出に成功した。そうなれば、「水中で使いにくい」物質をわざわざ用いるのは無駄である。更には、「水酸化イオン」と「プロトン」へと、「イオン結合の境目」で分解可能な水と異なり、窒素分子は共有結合をしており、非常に安定である。事実、窒素は生命に必須であるものの、空気中の分子を利用可能な形に固定出来るのは、極限られた一部の生物のみである。莫大なエネルギーを消費すれば分解は可能だろうが、それを用いてエネルギーを得ても結局は「赤字」だろう。やはり、窒素分子はこのような反応に用いるには不向きなのである。
A:これも面白い点に目をつけています。一点だけ。窒素が安定で、それを利用できるのは一部の窒素固定反応だけである、という点はその通りなのですが、それを言うならば、生物の多様な反応の中で水を酸素分子に分解できるのは、光合成の光化学系IIの反応ただ一つなのです。酸素にまで分解するということについて考えれば、水も極めて安定な物質です。
Q:理解できなかった部分が1点ありました。反応中心の概念ですが、光科学系Ⅱに反応中心のみが隣接しているために起こりうるのでしょうか。それとも光科学系Ⅱからプラストキノンに電子を送る役割を果たしているのが反応中心なのでしょうか。
また疑問に思ったことが1点あります。酸素発生の量子収率ですが、700nmほどで0%となっていたことには驚きました。元々が非常に少ない量であったため、あまり参考にはならないと先生はおっしゃっていました。しかしこの酸素発生の仕組み(700>X、X>700>Yで働く二つの物質により酸素が発生する)には興味が湧きました。植物に限らず、生物は多種多様な化学反応によって生命活動を維持しておりますが、700nm以上の波長で酸素を発生させないことはどんなメリットがあるのでしょうか。
A:残念ながら前半の疑問は意味不明です。後半の「700nm以上の波長で酸素を発生させないメリット」というのは面白い考え方ですね。確かに、どちらの光化学系でも、同じ波長領域の光を吸収できるようにしておいた方が得なように思います。ただ、そこで、疑問で終わるのではなく、自分で考えてみることが重要です。実際には、光化学系IIの反応中心クロロフィルの吸収は680 nm付近にあるので、700 nmの光を吸収するアンテナを持っていても、それが吸収したエネルギーは反応中心に伝わりづらいはずです。さらに、ではなぜ、光化学系IIも700 nmの光を吸収できる反応中心を持たないのか、という新たな疑問が発生しますが。