生物学通論 第14回講義

生物の進化

第14回の講義では、主に進化論について解説しました。


Q:ゴキブリは長い年月の中で、殺虫剤などにする免疫力や耐性が強くなっているといわれている。或は、ある殺虫成分に強い個が生き残り、サバイバルを生き抜くだけの優秀な遺伝子を持つ個同士が交配し子孫を残すことで、より洗練された隙のない個が生まれ、残っていくことで、そのようになったと言える。同様の進化は人類には見られないのか?少なくとも現代の若い日本人は数世代前の人によく「今の人はすぐ風邪とかひくね」といった免疫力の低下について言われる。これは数世代前の人々が病原菌などに打ち勝って生き残っている方々であり、つまり比較的優秀な遺伝子を持っている人や後天的に免疫力を得た人だけが高齢者として生活していることと、現代で科学が非常に発達しており人々が後天的に強い免疫力を得るまでもなく薬の力で病原菌を倒せてしまうためであると考えられる。では、人間は退化したのだろうか。筆者は免疫力という面では退化したのかも知れないが、ある面において進化したのではないかと考える。それは、「薬」の効果を最大まで引き出す身体にはならないかということである。つまり、昔の薬が以前よりも少ない量で充分、効果が薄いとされていた薬でもしっかりと働かせるような身体になるという進化をしないか、或はある病原菌が爆発的に拡散されたならばそのように外界から摂取した薬の効果を引き出せた者のみが生き残り、子孫を残していくのではないかと考えられる。

A:面白い考えではありますが、講義でも説明したように進化は個体がするものではなく、世代を経て初めて実現するものです。しかもその世代の数は数世代ではたりません。一方で、栄養が悪いと体格が小さくなるなどの変化は、個体にも表れます。そのあたりをわけて考えることが必要でしょうね。


Q:自分以外の生物も環境の一種であり、生物の進化が現在起こっているということは、環境も変化しているということで、生物の進化は止まらない、と言える。だが、本当にそう言えるのだろうか。少し特殊な例であるが、人間で考えてみたい。人間は他の生物に比べて、環境をコントロールする力を身につけてしまっており、自分自身が進化するよりも環境を自分に合わせていくようになってきている。これは進化が止まる一つの形であるのではないか。しかし、例えば空調が無かったら、去年節電で空調を止めていたことによる熱中症が何件も起きていたように、温度変化に耐えられる体力を持たない個体は生き残れず、子孫を残していけないので、時々そのような個体が生まれても淘汰されるが、空調が存在する今、そのような個体も生き続けることができる。もちろんそのような個体の数はとても少ないだろうが、それでも現在の環境では以前よりは生きていきやすいはずだ。ある自然環境下では決して有利とは言えない形質を持っていても、その生物が普段生きている環境下で有利であれば数を増やすことができ、そのような形質を手に入れることを進化と呼ぶならば、このような場合、形質を変えているのだから、進化と見ることができるのではないだろうか。少なくとも温度変化に弱いことは、先進国の人間が普段生きている空調のある環境下では有利にも不利にもならないため、個体を残していけるはずである。こういった形の「進化」は、今後人間に見られていく可能性は無いわけではないと考えられる。

A:人間の場合はわかりませんが、細菌の場合などはいわば油である生体膜がどの程度の温度で適度な「やわらかさ」を持つかによって、温度に対する耐性が決まります。その場合、高温でもやわらかくなり過ぎないようにすれば、低温ではどうしても硬くなりすぎてしまいますから、高温耐性と低温耐性を両立させることは非常に難しくなります。高温に対する耐性を失ったことによって得をする場面があるかどうか、ということも考えるべき側面の一つかもしれません。


Q:ダーウィンの自然選択説とは厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異を選別し、進化に方向性を与えるという説である。集団中に環境により適応した生物が現れると、その形質が集団中に広まるのである。授業中に人間はもう進化をしないと述べられていたが、その理由を考察した。進化に必要なのは先ほど書いたように無目的に起きる変異であるが、これはまず厳しい環境に生物がおかれていなければならない。我々人間は厳しい環境を知能や技術で生き抜いている。例えば暑ければクーラーを使う。この避暑法は他の生物とは違う。暑い環境の中で生きていくのとは違い、暑くない環境を作り出している。これでは暑さに対する身体的な進化は望めないと考える。このように実際は人間は厳しい環境に直接的にはいないようにする手だてを身につけている。一方、この手だてを考えることができるというのもある意味知能の進化なのかもしれないと考えたが、実際にこのような手だてを考え、発明し作ることができる、また、しようとする人間というのはごく少数であると考える。そのようにごく少数の優れた知能が存在してもその形質が集団に広まるとは考えにくい。例えば人間でない生物が暑い環境におかれた場合、その生物はみんな暑いわけであるから無目的変異をし、それが進化に繋がる可能性は前者よりはるかに高いということではないか。

A:一般論として「人間はもう進化をしない」と言ったつもりはありませんが・・・。環境を変える能力を持つと、異なる環境への進化は抑えられるかもしれない一方で、もう一つ説明した、病原菌などの生物環境に関しては、今しばらく人間を悩ませ続けるかもしれないと思いますし。


Q:ラスマルクの用不用説と、ダーウィンの自然淘汰説の話で、前者は個人の努力が子孫にも反映して、後者はそれが集団全体には波及しないという部分で考えたことがあります。前者であるほうが、人間的には子どもにそうした自分で獲得したものを伝えられたほうがいいと思うかもしれませんが、それは文化的要素が強いことに因っていた方がむしろいいのではないかと思います。なぜなら、本当に前者であると、競争に勝つことに努力した一部の優れた人間しか生き残れない、という場合も考えうると思ったからです。

A:生物学的というよりは倫理的な議論ですね。もし、倫理的に議論するのであれば、やはり「一部の優れた人間しか生き残れない」という状態が悪いのか、という前提条件から議論してほしかったと思います。


Q:生物が進化する理由は環境に適応するためであり環境に完全に適応できるか環境を変える能力を獲得できれば進化が止まると考えられる。自然界において環境の変化が止まることは考えにくいため進化が止まるとすれば環境を変える能力を獲得することになる。人間の場合、環境を変える能力を得ているため進化が止まっていると考えることができる。しかし、人間自体の進化が止まっていたとしても人間社会の変化は止まっていない。人間社会の変化の場合、生物が後天的に得た能力とは違い世代を超えて受け継がれていくものであるため生物の進化スピードよりも速い変化であると考えられる。実際に人間社会は自然界に比べてとても速い変化をしているといえる。自然界の進化の場合、目的が環境への適応であるため環境の変化以上のスピードは必要にならないが人間社会の変化の場合は目的が利便性の高い社会へ変化させることであるため変化のスピードが速い方がよいと考えられる。進化説にはラマルクの用不用説とダーウィンの自然選択説があり、自然界は自然選択説であると考えられているが、人間社会は用不用説に近いものであると考えられる。もし自然環境の変化のスピードがもっと早いものであり現在の生物の進化スピードで対応できなくなるとラマルクの用不用説のような進化をするのではないかとか思われる。

A:後半の論旨がよくわかりませんでした。人間社会の変化を社会の進化と捉えて議論しているのか、それとも社会の変化の中での生物の進化をあくまで議論しているのかがあいまいなように思います。


Q:ガラパゴス諸島のフィンチについて。①それぞれの島に複数種存在することから、地理的な隔離は種分化に必ずしも必要でないのではないかと考えた。そこで、同じ島の種同士と他の島の種とで、遺伝的・形態的な差に違いがあるかを調べる必要があるだろうと思う。つまり地理的隔離の影響が強ければ同じ島の種同士は比較的差が小さく、島が違えば差は大きくなるはずだ。また、そもそも島同士の移動が可能な距離であるから地理的隔離の考えを適用してよいのかという疑問が残る。②地上フィンチ・樹上フィンチそれぞれのグループ間で交雑が可能で、雑種で繁栄しているものいるため、生物学的に完全な種に分化されておらず種分化の途中と考えられているようだ。200~300万年前に棲みついたと考えられているフィンチがいまだ種分化の途中ということであるから、グラント夫妻がダフネ島で行った調査の例(干ばつの年に大型・くちばし長個体が増え、食料増の年には小型が増えるという結果)はたかが数年のことであり(自然選択を観察したという点ですごいことだが)種分化に必要な大きな方向性を示すものではなく、季節変動に伴う小さな変化を示したに過ぎないと思う。距離が近く気候がほぼ同じガラパゴス諸島における種分化を考えるには、気候による形態変化はフィンチ全体の傾向しか説明できないため、さえずり等の研究で種分化メカニズムの説明を試みたらどうかと思う。
 参考:wikipedia「ダーウィンフィンチ類」

A:よく考えているとは思うのですが、全体としての論旨がもう一息明確でないように思います。エッセーとしてはよいと思いますが。


Q:多様性は進化させるために必要だと言うことを学んだ。しかし、進化させるためだけに必要なのではないと思った。多様性は生命維持のために必要なのである。もし世界に1種類の生命しかいなかったら、自然とその種の生命の中でも少しの違いによって強弱などの差が生まれ、多様性も生まれるだろう。また、もし世界に2種類の生命しかいなくて、1つの生命がもう1つの生命を食べて生きているとしたら、2つの生命は短期間で絶滅してしまうだろう。生命が長く生きるためにも多様性は必要なのである。子孫をたくさん残すためにも、長く生きることは生命にとって大切である。

A:後期の講義では、マクロな面からみた生物学が主題となりますので、そこでもう少し勉強してください。


Q:種分化はどういうときにおこるのだろうか。生命が誕生してから今日まで、非常に膨大な数の生物種が誕生しては絶滅していった。これらの種がすべて環境により適応しようと形質を変化させて誕生したといえるのだろうか。ある種とそこから分化して誕生した種の二つでは、一方のほうが環境により適応した形質を有していると本当に言い切れるのかということである。もちろん、属や科のような大きなカテゴリーにわかれるほどに種分化を繰り返せば結果的にそういえるかもしれないが、同属内の種ではそこまで大きな形質変化はないわけであるから、分化の原因となった環境もあまり大きく異なるものではない場合のほうが、むしろ多いのではないかと思う。だから、中立説のように、遺伝的変異は環境に左右されないでも広まるものだと考える。

A:これもちょっと論理の流れがわかりませんでした。進化という題材は、ある意味で意味を絞りにくい題材なのかなと感じました。


Q:ダーウィン・フィンチの例を通して、同じ種の鳥でも環境に適応するためにくちばしが異なっているということを学んだ。これと同じ例として、ニホンジカ(エゾシカ、ホンシュウシカ、ツシマジカ、キュウシュウジカ、マゲジカ、ヤクシカ、ケラマジカ)の体の大きさは北の地域の方が大きいということを聞いたことがある。この日本という狭い範囲の中でも、同じ種にかかわらず環境に適応して進化しているのである。では、日本人はどうであろうか。人間も生物であるのだから、ニホンジカと同様の進化が起こっても不思議ではないのではないか。しかし、北海道の人は体が大きくて、沖縄の人は体が小さい、というような違いを聞いたことはない。このように考えた時、人間に限って言えば“進化していない”と考える。人間は長い歴史の中で道具を手に入れ、環境を変える能力を身につけた。このため、人間は進化し続けなくても環境に適応できたということになり、これが人間と他の生物との決定的な違いなのである。それは一方で、人間が進化をする努力をしていないということを意味し、「進化しなければ絶滅する」という言葉は、人間の将来を示しているようにも感じてしまった。

A:これもちょっとエッセー風かなと。もし、人間の体の大きさの変化が論理のかなめなのであれば、「聞いたことはない」というだけだとちょっと弱いですね。


Q:生物の進化は基本的には環境に対応する形で起こると考えられるが、その環境が生物の生息地に直接関係するものであっても、そういった性質に影響されて生物間の関係性がすぐに断たれるとは考えにくい場合がある。保護色や体毛による保護等の場合には適不適がはっきりしており適応によって分化していくものと考えられるが、例えばある調節機能が上昇した等の場合には、旧生物より生息地の幅は広がるものの元々の生息地では短期的にみればどちらも生息には同条件であり、その生息地において性質が広まっていくかはランダムでしかない。但し一定以上の割合が確保された状態で環境が激変した場合、新生物のみがその環境に適応可能であれば全てその性質を持った個体となる為有利であるとはいえる。これを人工的に利用する場合、周期の短い生物においては局地的に生息可能な生物を自然選択的に可能であるといえ、DNA構造の変化が特定の性質の程度の変動である程度規則的に起こり得るのか検証する事も、影響するという前提においては多数回の検証によってDNA範囲が絞りこめる為可能であると言える。

A:なかなか難解なレポートですね。最後の文などはもう少し推敲しないと意味が通じないように思います。


Q:今回の講義でガラパゴス諸島において種が島の環境に適応するため変化したこと、それをダーウィンが発見して進化論のさきがけとしたことを習ったが、あくまで授業で与えられた情報だけで考えると、ダーウィンは何故それが同種もしくは同種が起源になると判断できたのだろうか?形態が違う生物をみて、それがかなり似ているとは言え同種・もしくは同種起源だと断定するのは論理に飛躍がある。勿論ダーウィン本人はこういう事なのだろうという推測はあったと思うが、そこには定義(判断基準)が抜けている。今では種の定義は地理的隔離と生殖隔離とされているが、これが確立するのに相当の時間がかかったことをふまえると、生物の進化の論証の難しさが伺える。

A:「地理的隔離と生殖隔離」は種の定義ではなく、種分化のきっかけです。種の定義は、人によっても違いますが、交雑して子孫を残すことができるかどうかは重要でしょうね。