コラム陽だまり 第39回

留学思い出話4 アメリカの生活

赤い鳥

部屋を決めた翌日には実験を開始して、幸いなことに1ヶ月後には当初目的とした光合成関連の遺伝子のクローニングに成功しました。それまで一度もDNAを扱ったことがなかったことを考えれば、順調な滑り出しでしょう。生活も落ち着き、実験も進みだすと、新しいことを経験する余裕が出てきます。すぐ家のそばにフォレストパークという大きな公園があるので、そこでバードウォッチングをしたり、サイクリングロードで自転車を乗り回したり、テニスの壁打ちをしたりするようになりました。公園では、十数種類の鳥がみられます。最初は、真っ赤なCardinal、あるいはAmerican Robin、Blue Jayといった派手な色の鳥を見ては喜んでいたのですが、すぐに慣れてしまいました。

初めのうちは、新聞もテレビニュースも無縁の生活で、ゴルバチョフが権力の座を追われたのも研究室の大学院生から聞いて初めて知ったほどでしたが、1カ月ほどして、大学の東アジア図書館で日本の新聞を読めることがわかりました。朝日新聞は5-6週間遅れなので最新情報は得られませんが、読売新聞は衛星版で、5-6日遅れで読むことができました。現地の新聞も読みましたが、こちらは情報収集というよりは物珍しさです。日本の大新聞とはまるで異なり、国際的なニュースはほとんどない代わりに、地域で生まれた赤ん坊の名前は全てニュースに載るようでしたし、婚約あるいは結婚したカップルは写真付きで記事になり、結婚式の介添え人が誰だったかまで詳細に紹介されます。その「地域に密着」した雰囲気は驚きでした。

研究室の大学院生に誘われて、ポール・サイモン(サイモン&ガーファンクルのサイモンです)の野外コンサートや、セントルイス交響楽団のコンサートに行ったりもしました。セントルイス交響楽団は、アメリカで二番目に古い交響楽団で、セントルイスの人に言わせると、シカゴ、ボストンとならんで全米で三本の指に入るとのことです。僕が訪れた時は、レナード・スラットキンが首席指揮者をしていました。マーラーの交響曲第2番をスラットキンの指揮で聞いたことがあるんだぞ、と妻に言うと、豚に真珠だの何だのとつぶやいておりましたが、内心では羨ましがっている様子でした。

滞在期間が短かったこともあり、アメリカ国内での旅行といえば、研究室の皆でバンに乗ってインディアナ州の州立公園で開かれるMidwest Photosynthesis Meetingという小さな学会にいったぐらいです。研究発表をする会なのですが、発表は午前と夕食後だけで、午後はまるまる参加者の交流にあてられます。公園内をハイキングしながら研究のことなどを語り合うのはなかなか良い経験でした。

アメリカでの滞在期間は9カ月だけでしたが、新しい環境、新しい研究手法、新しい文化に触れることができた有意義な時間でした。30年前は、かろうじて電子メールが一般ユーザーに使われ始めたころで、日本とやり取りをする場合でも、日本語がメールのシステムを通らないので、英語で書くかしかありませんでした。もちろん現在のようなインターネットは存在しません。英語の文化にどっぷりつかるという意味ではむしろ良かったのかもしれません。

最後に、日本に帰国した際の感想を2つ。
「家の自分の部屋がこんなに狭かったとは!」(アメリカで住んでいた「小ぢんまりとした屋根裏部屋」というのは日本の数え方で言えば12畳ぐらいだったでしょう)
「牛乳パックが小さい!」(アメリカでは半ガロン=1.9リットル入りが普通でした)

2014.01.14(文:園池公毅/イラスト:立川有佳)