タイプライターで苦労した月日はそれほど長くありませんでした。研究室にワープロが導入されたのです。記憶が定かではありませんが、確かソードという会社のパソコンで動くWordStarというソフトだったと思います。入った時は8インチのフロッピーディスクが印象的でした。今では、フロッピーディスク自体が絶滅してUSBメモリにとって代わられましたが、若い人でも3.5インチのフロッピーは記憶にあるのではないかと思います。3.5インチのものとは異なり、名前通りのぺらぺらしたディスクで、A4判ぐらいの面積をもつ巨大なものでした。ちなみに、8インチのフロッピーはすぐに5インチのものにとって代わられ、さらにしばらくして3.5インチのものが登場することになります。今から思えば、ディスプレーはモノクロの(正確にいえば緑一色の)荒い画像で見づらく、操作性もキーボードからコマンドを入力する仕組みですから使いづらいものでしたが、タイプライターと比べると、間違ったところを印字の前に直せるというだけでも画期的でした。タイプライターの時代には、場合によっては1か所の間違いのために1ページをまるまる打ち直していたのが嘘のようです。
これで、卒論や修士論文を書ければかっこよかったのですが、実際には日本語で書いてしまいました。当時研究室には日本語ワープロなどというものはないので手書きです。学会発表の要旨なども、その頃は専用の原稿用紙が案内に綴じ込みで送られてきて、それに手書きで書いたものです。僕の最初の学会発表は、1983年に京都で開催された植物学会で、要旨は当然手書きです。学会の後、何かの折にフィコビリソームを研究されていた京都大学のK先生に自分の仕事の内容をお話ししたら、「そういえば、汚い字の要旨でその話を読んだことがある」と言われて閉口したこともありました。その後しばらくして日本語ワープロが普及すると、原稿用紙に行数字数を合わせて印字するのが普通になりましたが、それはそれで、ぴったり印字するのに苦労したものでした。
研究室で使った最初の日本語ワープロは、日英両用ワープロと銘打たれたTwinStarというものでした。ファンクションキーに割り当てられた制御コードを本文中に埋め込む形でしたから、ちょうど、現在HTMLをシンプルなエディターで書くようなもので、見やすいものではありません。そのうち、ジャストシステムの「一太郎」と、管理工学研究所の「松」というソフトが出て、ようやく現在のワープロソフトに近いものになります。一太郎はそののちシェアを広げて、日本語ワープロの代名詞のようになっていきました。初期のものの動きは「松」の方が高い評価を得ていたけれども、コピープロテクトが弱い「一太郎」が海賊版を通して結果的にシェアを広げたというもっぱらの噂でしたが、実際にはどうだったのでしょうね。その後、パソコンのOSが、N88-Basic からMS-DOSを経てWindowsへと移行する中で、MicrosoftのWordが一般化していくのはご存知の通りです。
ちなみに、初期のワープロソフトにはなかったスペルチェック機能が始めて登場したときには感激しました。最初の投稿論文の原稿ファイルが残っていたので、それを面白がってスペルチェックにかけてみたら、3つもスペルミスが見つかって、がっくりしたのを覚えています。(つづく)
2013.07.16(文:園池公毅/イラスト:立川有佳)