自分でお話を作れますか?
高校や中学の教科書の執筆に携わってもう十数年になる。最初に高校の生物の教科書の執筆の依頼を受けた時、無味乾燥な事実の羅列という生物の教科書のイメージを打ち破ろうと、意気込んで執筆に取り掛かった。考えてみればまだ三十代のころである。指導要領には準拠しながらも全体にストーリーを持たせ、高校生が一人で読んでも面白い(と自分では考えた)原稿を執筆した。そして臨んだ編集会議の席で現場の高校の先生から出たのは「これはお話であって教科書ではありません。お話を作るのは教師の役割です。教科書に要求されるのは、そのお話のためのリファレンスの機能です。」という言葉だった。
それ以来、自問自答を繰り返しながら教科書を書き続けてきた。確かに教科書を読んで完結するのであれば、教師の存在は必要なくなってしまう。教科書「を」教えるのではなく、教科書「で」教えるのだ、という言い方はよく耳にする。しかし、自分でストーリーを作る力量のある教師は、本当に多数派なのだろうか。自らも教科書の執筆に携わろうという意気込みと能力のある先生は「お話を作るのは教師の役割です」と断言できるかもしれないが、少なからぬ教師は教科書「を」教えているのではないだろうか。本当に能力のある教師なら、教科書に何が書いてあろうとも教えられるだろうから、むしろ教科書「を」教えてしまう教師に向けて教科書を書くべきなのではないだろうか。
結局、教科書をどのように書けばよいのか、という点についてはいまだに決定的な答えに達していない。そもそも自分ではよいと思っても検定に通らなければ教科書にはならない。巷では歴史教科書の検定が話題となるが、生物の教科書には、歴史の教科書よりはるかに多くの検定意見がつくのが普通である。さらに、教科書といえども市場原理は働くから、どんなに良い教科書を書いても採択されなければだれの目にも触れない。
とは言え、教育学部の教員として学生に求めることははっきりしている。教科書をリファレンスとして使って自分で語れる教師になってほしい。
初出:早稲田大学教育学部 教員リレーエッセイ2012年12月